北里柴三郎記念館
- 2019/06/22
- 10:05
2019年06月22日 (土)
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一を1万円札、女性教育を推進した津田梅子を5千円札、日本近代医学の先駆者である北里柴三郎を千円札の新しい肖像が決定したので、熊本県小国の家に寄ったついでに北里柴三郎記念館に行って来ました。
☆ 06月13(木)
新しくなる1000円札の見本と、北里柴三郎記念館の大まかな場所です。

小国町出身である故北里柴三郎博士の生家や、博士から小国町に寄贈された北里文庫(図書館)を改修し、偉業をたたえているのが北里柴三郎記念館です。
この施設は生前、博士が大正5年に建てた貴賓館、北里文庫があった敷地に、昭和62年、博士の学問を受け継ぐ北里研究所、北里学園が中心になって博士の生家の復元修復を行うとともに、北里文庫の建物を利用して博士に関する遺品などを陳列し、小国町に寄贈されたものです。(小国町HPより拝借)
駐車場付近から。

入場料を払い敷地内へ。館内マップをネットから拝借。

まず北里文庫へ。

この北里文庫内だけは写真撮影が禁止なのでHPより拝借。

大正5年(1916)、博士が私財1万円余を投じて、郷里の青少年に贈りました。当時、熊本県立図書館につぐ大図書館と言われ、蔵書数1,511冊と記録にあり、終戦時までよく利用されました。木造洋風建築120平方メートル。(小国町HPより拝借)
貴賓館へ。

内部の写真です。

室内からの生家と外から縁側を。

北里文庫建設と同時に建てられた和風木造2階建物で、小国杉の大木によって建てられています。大正5年8月10日の落成式には、博士は一家をあげて参列し、ここで数日過ごされました。(小国町HPより拝借)
現存する生家の一部

内部の写真です。

明和元年(1764)総庄屋5代目北里兵衛家から分家して坂下屋敷と称していましたが、明治28年(1895)両親を東京に呼び、空家となったため座敷の2間を残して他は取り壊しました。現存するのはその一部です。(小国町HPより拝借)
敷地内を散策。
博士夫妻が植樹したお手植えの杉が。

北里文庫の裏側にある書庫の蔵。

銅像と涌蓋山。

小国に立ち寄った時に行こうと思っていたのが実行できました。
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日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一を1万円札、女性教育を推進した津田梅子を5千円札、日本近代医学の先駆者である北里柴三郎を千円札の新しい肖像が決定したので、熊本県小国の家に寄ったついでに北里柴三郎記念館に行って来ました。
☆ 06月13(木)
新しくなる1000円札の見本と、北里柴三郎記念館の大まかな場所です。


小国町出身である故北里柴三郎博士の生家や、博士から小国町に寄贈された北里文庫(図書館)を改修し、偉業をたたえているのが北里柴三郎記念館です。
この施設は生前、博士が大正5年に建てた貴賓館、北里文庫があった敷地に、昭和62年、博士の学問を受け継ぐ北里研究所、北里学園が中心になって博士の生家の復元修復を行うとともに、北里文庫の建物を利用して博士に関する遺品などを陳列し、小国町に寄贈されたものです。(小国町HPより拝借)
駐車場付近から。

入場料を払い敷地内へ。館内マップをネットから拝借。


まず北里文庫へ。

この北里文庫内だけは写真撮影が禁止なのでHPより拝借。



大正5年(1916)、博士が私財1万円余を投じて、郷里の青少年に贈りました。当時、熊本県立図書館につぐ大図書館と言われ、蔵書数1,511冊と記録にあり、終戦時までよく利用されました。木造洋風建築120平方メートル。(小国町HPより拝借)
貴賓館へ。

内部の写真です。



室内からの生家と外から縁側を。


北里文庫建設と同時に建てられた和風木造2階建物で、小国杉の大木によって建てられています。大正5年8月10日の落成式には、博士は一家をあげて参列し、ここで数日過ごされました。(小国町HPより拝借)
現存する生家の一部

内部の写真です。


明和元年(1764)総庄屋5代目北里兵衛家から分家して坂下屋敷と称していましたが、明治28年(1895)両親を東京に呼び、空家となったため座敷の2間を残して他は取り壊しました。現存するのはその一部です。(小国町HPより拝借)
敷地内を散策。
博士夫妻が植樹したお手植えの杉が。


北里文庫の裏側にある書庫の蔵。

銅像と涌蓋山。


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