2017年07月04日 (火)◎
天草の旅☆
06月29日(木) ☁ しばらく車中泊の旅をしてないので、週間天気予報では梅雨の晴れ間ということなのでに天草の旅に出かけました。
何度か訪れているのですが、美味しい物を食べようということで出発です。
しかし、ちょっと天気予報がずれてきているので雨が心配になってきました。
天草の入口、三角港で近辺を散策。
一号橋(天門橋)ですが手前に新しい橋の建設中ですなので見えません。

浦島屋

明治中頃に存在していた旅館。木造2階建ての洋館。西港のメイン。
1893年(明治26年)に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が滞在し「夏の日の夢」という紀行文を残した。
港湾環境整備事業により1992年(平成4年)に建物の一部が復元され、休憩所・カフェ・展示場などとして活用されている。
龍驤館

明治天皇の即位50周年を記念して宇土郡教育会が建てた木造平屋建ての洋館。現在はイベントや展示場として使われている
一号橋を渡り車中泊をする 道の駅 上天草さんぱーる へ進みます。
ここで食料を仕入れ、近くの スパ・タラソ で汗を流し車中泊の準備です。
高台にあるスパです。浴槽からの眺めは最高でした。

天草四郎メモリアルパークの前にある道の駅です。

本日の宿泊地
道の駅 上天草さんぱーる です。
立寄り湯は
スパ・タラソ です。
( 走行距離 219.7㎞ 給油 0ℓ )
☆
06月30日(金) ☁/☂朝方雨の音で目が覚め、急いでルーフを下ろしました。
朝の状態です。

出発の準備を済ませし、上の天草四郎メモリアルホールへ。

伝説と謎に包まれたわずか16歳の少年、天草四郎を中心に繰り広げられた信仰の戦い「天草・島原の乱」。ここ天草四郎メモリアルホールでは「天草・島原の乱」の歴史的背景及び南蛮文化の影響を受けた当時の模様を資料と映像によりわかりやすく紹介しています。天草四郎の真の姿と民衆の熱き思いを今に伝える体験的テーマ館です。(HPより)
この付近はあまり見どころがないし、天気があまり良くないので本渡方面へ向かいます。
その途中で、以前も食したことがある店に立ち寄ることにしました。
丁度雨が激しくなる頃に到着です
お店は ”海老の宮川” です

贅沢ですが海老会席を注文。

踊り食いは食した後の写真ですが、これが目当てで天草に来たので・・・。
今日一日は贅沢で行きます。明日からは質素に。
お腹も満腹。雨も上がったので出発です。
まず祗園橋です。

『国の重要文化財』に指定されている。柱状の石を組み合わせた素朴なつくりで、橋脚は水切りのための三角形の流線型になっている。長さ28.6m、幅3.3m近くもある橋間に、約30㎝の角柱が5列9行45脚によって支えられている。
祗園橋と説明の案内板です。

次は天草キリシタン館と庭の天草四郎像です。

ここを出てまだ時間の余裕があったので、明日行く予定だった崎津教会へ行くことに。

﨑津教会は、長崎の建築家・鉄川与助によって設計されたゴシック様式の教会で、現在の教会は、1934年(昭和9年)、フランス人宣教師ハルブ神父の時代に再建された。
教会はコンクリート造と木造が組み合わされています。

前の方がコンクリート造で後ろが木造です。
本日の予定は終了です。
立ち寄り湯に寄って汗を流し、本日の宿泊地 ”道の駅 うしぶか海彩館へ。

併設のレストランで最後の贅沢で夕食を。アルコールも一緒に。

ここ(牛深港)は、鹿児島県の長嶋(蔵之元港)までのフェリー乗り場でした。30分で行ける距離です。

遠くに見える長島です。
駐車場の上には牛深ハイヤ大橋。

昼間のハイヤ大橋。

夜のハイヤ大橋。

牛深漁港の海上を通り、加瀬浦地区にある後浜新漁港へと至る全長883メートルの橋 です。魚の銀鱗を思わせるような風よけ板がこの橋のデザインの大きな特徴です。夜は ライトアップされ、昼間とは違った顔を見ることができます。
夜中に若者達が釣りなどで少々うるさかったが、他の車中泊の車はいず貸切でした。
本日の宿泊地
道の駅 うしぶか海彩館 です。
立寄り湯は
牛深温泉やすらぎの湯 です。
( 走行距離 109.3㎞ 給油 0ℓ )
☆
07月01日(土) ☀今日は何度も訪れている大江教会へ。

キリスト教解禁後、天草で最も早く造られた教会で、現在の建物は昭和8年(1933年)天草への伝道に生涯を捧げたフランス人宣教師ガルニエ神父が地元信者と協力して建立した。 丘の上に建つロマネスク様式の教会。

次は何度も天草を訪れていますが、立ち寄って無かった富岡城跡です。



富岡城は慶長6年(1601年)に天草の領主となった、肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって慶長7年(1602年)頃から築かれた。寺沢氏は、富岡城に藩代を配置し天草を統治したが、寛永14年(1637年)島原・天草一揆で一揆軍から攻撃を受けた。 この乱後、山崎甲斐守家治の領地となり、山崎氏は大規模な修築及び拡張を行い現在に見られる富岡城の形ができた。山崎氏の後に天草は天領となり鈴木代官の時代を経て、戸田伊賀守忠昌時代の寛文10年(1670年)破城され再び天領となる。天領時代は、三の丸に代官所がおかれ天草の行政の中心となった。
現在富岡城の本丸跡に「熊本県富岡ビジターセンター」が整備され、平成17年4月に完成。さらに、櫓・高麗門等を整備し、当時の富岡城が蘇りつつある。(HPより)
森の上に見える富岡ビジターセンターです。

天草の旅はこれ位にして、もう一つの目的である長崎の名物でもある”ちゃんぽん”を食することです。
今回はちゃんぽんの発祥の店に行くことです。
ちゃんぽんと言えば四海楼!長崎ちゃんぽん、発祥のお店といわれている超有名店です。
そのためにまず島原へフェリーで移動です。
鬼池港へ。

手続きを済ませ並んで乗船します。

フェリーが出航してすぐイルカが泳いでいました。

長崎県諫早の口之津港に到着し、まだ時間も早いので雲仙地獄に行くことに。


新湯の間の白い土(温泉余土)におおわれた一帯で、雲仙温泉街の観光のメインスポット。大叫喚、お糸、清七など30あまりの地獄がある。噴気孔から高温の白い水蒸気が噴き上がり、強い硫黄臭が漂う中、湯けむりをもうもうと立たせ、地獄という名前通りの様子を見せる。江戸時代にキリシタン殉教の舞台となった場所としても知られる。(HPより)
以前に比べかれたとこが多く、水蒸気の噴き上がりや湯けむりが少なかったようでした。
立ち寄り湯で汗を流し、食料を仕入れ宿泊地の道の駅 みずなし本陣ふかえへ。

駐車場の後ろの方に、天気がよければ普賢岳が望めるのですが雲が降りてきてあいにくでした。
本日の宿泊地
道の駅 みずなし本陣ふかえ です。
立寄り湯は
ホテル シーサイド島原 です。
( 走行距離 141.9㎞ 給油 0ℓ )
◎
長崎で ”ちゃんぽん” を食べる☆
07月02日(日) ☁⇢☀出発前に、雲仙普賢岳噴火で被害にあった場所を少し案内します。
道の駅みずなし本陣ふかえは、国道251号沿い、雲仙普賢岳噴火で特に大きな被害を被った場所にあります。 被災家屋を現状保存する「土石流被災家屋保存公園」、飲食・物販・体験等の諸施設を有した和風建築物の集合体である 「みずなし本陣」より構成される複合型観光施設です。(HPより)
土石流被災家屋保存公園は朝9時から開園なので写真がありません。
HPよりお借りしました。

外の様子です。これは実際の写真です。

もう一か所、旧大野木場小学校被災校舎へ。

案内板と中の様子です。

南島原市深江町にある旧大野木場小学校被災校舎は、平成3年9月15日18時54分に発生した大火砕流に伴う、強烈な熱風(火災サージ)で焼失した校舎を、被災当時のまま保存・展示した施設です。(HPより)
さて、それでは長崎の ”ちゃんぽん” の発祥の店に向かって出発です。
グラバー通りの入り口にある、大きなビルが「四海楼」です。初代オーナー陳平順により、安くてボリュームがあり栄養満点のメニューを、と作られたのが「ちゃんぽん」でした。長崎のちゃんぽんはここから始まったとされています。

店の開店時間まで一時間程あったので、大浦天主堂近辺の散策で時間をつぶします。

近くで見つけた面白い風景。

坂道にあったベンチ。
時間になったので店に行きます。

もう何組か入店していました。
早速ちゃんぽんを注文です。

美味しくいただきました。
店を出る時は大勢の人達が順番待ちです。流石に人気店です。
今回の目的も達成したので、下道を休憩を取りながら帰宅です。
( 走行距離 296.6㎞ 給油 26.0ℓ )
(総距離 約 768㎞ の行程でした)
ブログランキングに参加しています。
クリックしていただけると励みになります。
↓ ↓ ↓
にほんブログ村
FC2ブログ